温泉に入るのは、日頃の疲れを癒すため?
今回は、往復12時間の登山を強いられる、温泉に入ることで逆に疲れ切ってしまうこと必至のスポットを目指します。
その逆説的な存在は、温泉に入ることの意味以上に、より多くの示唆に富んでいるかもしれません。
往復30kmの苦行
ミドル・フォーク(ライトフェザー)温泉からヒラ川を上流へずっとさかのぼると、もう一つの野湯があると聞きつけました。
道なき道をかき分け、ときに道筋を見失って後戻りしていると、朝日の輝きとともに出発したはずなのに、思いどおりのスピードで前進できていないことに気が付きます。
訪問時は10月とはいえ標高2,000m近い高地の気温は夜間には氷点下となり、日没までに帰れないのは死活問題です。
膝丈の深さの川を何十回と歩いて渡り両足がふやけたところが、草木や靴と擦れて血がにじんできます。
徐々に迫力を増す奇岩の数々も、疲労と焦りから次第に目に留まらなくなってきます。
こんなに辛い思いをして、私はなぜ「温泉」にこだわるのか?
きっと私は、何の意味もないことに悪戦苦闘しているのでしょう!
しかし、時を超えて存在する「温泉」によって私自身の意味が問われているのであって、私が「温泉」の意味を問うべき立場にないのです。
それは「温泉」という言葉を「人生」に置き換えてみたところで全く同じことかもしれません。
……などと取り留めのないことを考えながら歩いていると、川の中に明らかに人の手が入った岩風呂を発見。


神々しい露天風呂
そこへ流れ込む湯をさかのぼると、倒木の下に10人は入れそうな大きな露天風呂があります。
砂利敷きの浴槽の温度は38℃程度で、湯の入れ替わりは早く澄み切っています。
右側の滝が源泉です。
実は、左側の木の根っこの下にもう一つの源泉があります。
そちらの方が明らかに泉温が高く、私はこの木陰で身体を温めることにしました。
元来た方向を振り返ると、そこには手つかずの自然が水面に映り込んだ、えも言われぬ光景が。
「温泉」を取り巻くさまざまな状況に直面しながら、その都度「温泉」から問われていることを感じ取り、それに応えていくことが何よりも大切だと、私は思いました。
まとめ
Jordan Hot Springs, ヒラ国立森林公園, ニューメキシコ州, アメリカ
私の好み
- 種類野湯(キャンプ可)
- ルール全裸可
- 塩素消毒無し
- 泉温~38℃